(1月26日礼拝宣教要約)
イエスさまは見てもらおうとして人前で善行をしないように注意しなさいと言われました。祈るときにもほかの人に見てもらおうとしてはならないと言われました。隠れたところにおられる神さまはあなたに報いてくださるのです。言葉が少なくても願う前からあなたがたに必要なものをすでにご存じなのです。(長尾なつみ牧師)
(1月19日礼拝宣教要約)
イエスさまは山上の説教として弟子たちに教えを語られました。一見すると耳が痛くなる厳しい教えです。大事なのはイエスさまが言われている真意をきちんと考えていくことです。人を分け隔てなさらない神さまは人間を苦しめるために律法を与えられたのではなく人が生きるために与えてくださったのです。(長尾なつみ牧師)
(1月12日礼拝宣教要約)
イエスさまが伝道の拠点とされたのはガリラヤ湖の北にある町、カファルナウムでした。そこで二人の兄弟ペトロとアンデレに語られました。さらに進んでほかの弟子たちにも声をかけられました。ここから福音を宣べ伝える活動が始まるのです。教会はこうした呼びかけに応えて従った者たちの群れなのです。(長尾なつみ牧師)
(1月5日礼拝宣教要約)
イエスさまは正しいこととしてヨハネからバプテスマを受けました。神さまのみ前で罪を告白し悔い改め、赦しを願うことは人間として生きる上で大事なことです。さらにイエスさまは聖霊を受けられ、新しい命に生きること、ここに救いの道があるということをご自身の体を持って示してくださったのでした。(長尾なつみ牧師)
(12月29日礼拝宣教要約)
悲しいことは私たちのまわりにたくさんあります。それでもみんなが悲しみを自分の内にもって歩いていると共感し祈ることが大切なのではないでしょうか。イエスさまは今日も私たちの悲しみを知っていてくださいます。そして、その悲しみを全部受け止めて私たちにまことの慰めを与えてくださるのです。(長尾なつみ牧師)
(12月22日クリスマス礼拝宣教要約)
クリスマスという言葉の意味は、クライストが英語でキリストという意味でマスは礼拝するという意味です。星に導かれた東方の賢者たちは不ヨセフとマリア、幼子イエスさまがいる家畜小屋にたどり着き、そこで喜びとともに高価な贈り物と礼拝をささげました。まさにそれがキリストを礼拝することでした。(長尾なつみ牧師)
(12月15日礼拝宣教要約)
東からきた賢者たちは、その「星」をみて、「メシア」が生まれるという報せだとわかりました。苦しく、暗闇の中を手探りで歩くような、戦争ばかりの状況に、「救い主(メシア)」が生まれるというひとすじの希望に心躍らせ、その「メシア」を拝し、ささげものをしたいと、その賢者たちは思いました。そこには、救い主にささげものができるという「喜び」がありました。(長尾なつみ牧師)
(12月8日礼拝宣教要約)
マタイによる福音書にいわゆる大宣教命令といわれるイエスさまの言葉に私はあなたがたと共にいるというインマヌエルの言葉があります。私たちは共にいてくださる神さまによる恵みを早急に求めます。しかし、奇跡が起こらず答えのない現実の中に神は共にいてくださったことを知らなければなりません。(長尾なつみ牧師)
(11月24日礼拝宣教要約)
アドベントクランツのろうそくの一本目の意味は希望です。神はイスラエルの民に「正義の若枝」と呼ばれる方が真の平和をもたらすと希望の知らせを告げました。自ら声をかけてくださる主なる神さまを積極的にたずね求めアドベントのときを過ごしイエスさまの平和という希望を求めていきたいと思います。(長尾なつみ牧師)
(11月17日礼拝宣教要約)
エレミヤは主の言葉に従い崩壊寸前のアナトトの畑を買い戻しました。それは神さまの希望のメッセージを告げるためでした。先日、府中教会を設計された大泉教会員の上杉さんから当時麦畑だったこの地に礼拝堂をつくることが一番の目的だったと伺いました。再び教会堂を建てる希望を求めていきたいです。(長尾なつみ牧師)
(11月3日礼拝宣教要約)
先週の音楽礼拝は音楽を通しての宣教、伝道という形で恵み豊かな礼拝となりました。歌と奏楽によって神さまに感謝をささげていくことを体験しました。今週のエレミヤ書の箇所は主がイスラエルとユダの繁栄を約束された慰めの言葉です。神さまの計画は災いではなく平安と希望であることを信じ祈ります。(長尾なつみ牧師)
(2024年10月20日礼拝宣教要約)
エレミヤ書の時代と今の世界の状況、特に戦禍にある建物が破壊されている映像が重なって見えます。ユダの滅びを前にして、人の歩みを確かなものにするのは神さまであることを知っていたエレミヤは自分の道を主にゆだねました。人は神によって定められた道を歩むとき、神がその人を支えてくださいます。(長尾なつみ牧師)
(2024年10月13日礼拝宣教要約)
今日の聖書箇所では自分たちの力に寄り頼み選択し失敗してきたイスラエルの民が最終的にどの道を選びどのように歩むのか問われています。後の時代を生きる私たちに対するいましめとして「真の幸いに至る道」すなわち神さまの言葉に聞き従う生き方を選び取りなさいとの招きの言葉が語られているのです。(長尾なつみ牧師)
(2024年10月6日礼拝宣教要約)
エレミヤが預言者として活動していた時期はイスラエルの歴史において暗黒時代でした。王にうとまれ孤独の淵にあっても神さまのことばをストレートに語り続けたエレミヤの姿はイエスさまの姿とも通じるものがあります。恐れや不安の中にあっても神さまがあなたと共にいてくださると聖書は告げています。(長尾なつみ牧師)
(2024年9月29日礼拝宣教要約)
父ヤコブの死後、ヨセフは仕返しを恐れていた兄弟たちに対して信仰と愛を示しました。ヨセフは自分が神さまの代わりに兄弟たちを裁くことはできないと語りました。こうして血縁的なつながりを超えて神さまによって生かされゆるし合い愛し合う関係へと変えられました。平和がありますようにと祈ります。(長尾なつみ牧師)
(2024年9月22日礼拝宣教要約)
ヨセフは自分の子どもに「忘れる」と名付ける程に故郷への未練を断ち切ろうとしました。ただ、忘れようとしても故郷や家族のことは一時も心から離れず、思いがけない再会を果たした兄たちと和解することにより人生に主の平和をもたらしました。たとえ罪をおかしたとしても愛されていることに感謝です。(長尾なつみ牧師)
(2024年9月15日礼拝宣教要約)
奴隷の身にあってもヨセフは主を待ち望みました。その苦しみの中にあっても「誰にもわからない悩み悲しみも神さまだけは知っていてくださる」という思いがあったのではないでしょうか。現代に生きる私たちにも悩み苦しみをイエスさまが知っていてくださるというメッセージが心に突き刺さってきました。(長尾なつみ牧師)
(2024年9月8日礼拝奨励要約)
本日は左右田淑子さんによる奨励『神の計らいは恵み深い。だから大丈夫、安心して。』ヨセフをエジプトに売り飛ばした兄の策略も神は善きことに変え祝福しました。不安や苦難の中にあっても神さまは共におられ人の悪いたくらみさえ用いて恵み深く計らってくださるということを証ししてくださいました。
(2024年8月25日礼拝宣教要約)宣教題 ベテル(神の家)で神を礼拝する
ヤコブは名をイスラエルに変えられ、ベテル(神の家)を名実ともに形作ることに取り組み続けなくてはいけない教えを告げられました。神さまは教会のことを見られています。神さまが見られる礼拝とは神さまが現れ会衆のために語りかける礼拝です。神さまが祝福を語る場所こそが神の家としての教会です。(長尾なつみ牧師)
(2024年8月18日礼拝宣教要約)宣教題 私の罪をゆるしてくれた
今日のヤコブ物語にテーマは和解です。兄弟の再会にあたり、命を奪われるかもしれないと覚悟して臨んだヤコブに対してエサウは温かく迎えました。「温かく迎えてくれた」は「私の罪をゆるしてくれた」とも訳せます。神さまと人間の和解も先に神さまのゆるしがあったから信仰をもち礼拝が出来るのです。 (長尾なつみ牧師)
(2024年8月4日礼拝宣教要約)宣教題:逃げ恥
ヤコブラバン物語は一見すると逃げ出したことになる悲しい家族の物語です。しかし神さまはラバンに非難し合うのではなく互いを認め合うこと、関係回復へと導いてくださるみ言葉を告げました。聖書はただ道徳を教えるのではなく人間が生きるために必要なみ言葉を、生きるヒントを示してくださるのです。(長尾なつみ牧師)
(2024年7月28日礼拝宣教要約)宣教題:主のことばがまんなかに
ヤコブは逃亡の地で神さまの夢を見たことで「主が共にいる」ということに気付かされました。思いがけない悲しい出来事や困難な事柄に出会う時、神さまのみことばを思い出すことがあれば「主のことばが心のまんなかにある」ということではないでしょうか。神さまに祈ることができることは祝福なのです。(長尾なつみ牧師)
(2024年7月21日礼拝宣教要約)
旧約聖書において、祝福とは財産をすべて相続するという意味が強くありました。新約聖書においては、イエスさまの十字架と復活によって祝福の意味は幅が広がっていきました。聖書では神の義、憐み、喜び、善意、恵み、キリストの再臨などと表現されています。みことばを通して祝福をいただきましょう。 (長尾なつみ牧師)
(2024年7月14日礼拝宣教要約)
聖書は「命読み」するものだと仰った牧師がいました。聖書を読み解く聖書学や神学というものも時代と共に進んでいき、その時代の中で読み直していくことが求められていくのでしょう。昔も今も人間の起こした戦争で食糧不足の状況におかれている人がいます。私たちの隣人は誰なのか問われているのです。(長尾なつみ牧師)
(2024年6月30日礼拝宣教要約)
「パウロはあくまでもイエスが十字架の上で無残に殺されたことにこだわり続けました。無残で酷たらしいものだからこそ神はイエスの十字架を肯定しているのだと逆説的に捉えていました。私たちは見た目の強さに目を引かれがちですが、本当の強さは弱さの中にあってこそ発揮されあると聖書は語っています。
」(長尾なつみ牧師)
(2024年6月23日礼拝宣教要約)
「6月23日は「命どぅ宝の日」で沖縄慰霊の日として沖縄のことを覚えていく日です。命あるものが生き生きと平和に生きられる場所であってほしいと願います。さて、パウロはエルサレムの教会を救うため慈善的な献金を奨めました。献金は決して強制されたり渋りながらではなく感謝と喜びから捧げたいです。」(長尾なつみ牧師)
(2024年6月16日礼拝宣教要約)
「パウロはコリントの信徒へ神と人との和解が必要だと宣べました。イエス・キリストは神と人との和解のための使者であり、私たちも罪ゆるされたものとしてキリストの使者なのです。この信じる者たちの間に聖霊が働かれ語られるみ言葉が力を持つのです。これが教会において絶えず福音が語られる意味です。」(長尾なつみ牧師)
(2024年6月9日礼拝宣教より)
「パウロは問題を抱えつつ伝道を続けました。そのキリストの勝利の行進からは私たちに出来ることを問われている気がします。次の世代に出来ることは礼拝を第一にするという姿勢を見せることです。キリストに出会いキリストが聖霊というかたちで心の中にあり喜びで満ちていることに感謝し礼拝するのです。」(長尾なつみ牧師)
(2024年6月2日礼拝宣教より)
「パウロは苦難と慰めについて、キリストの苦難が私たちのうちに満ち溢れているように私たちの慰めもまたキリストによって満ち溢れていると語りました。私たちの試練はキリストの苦難に変えられます。なので私たちの苦難が理不尽なようなものであったとしても神の慰めを受けて癒されるほかはありません。」(長尾なつみ牧師)
(2024年5月26日礼拝宣教より)
「今日の聖書箇所に「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」とあります。イエスさまを死の支配から解放し復活させてくださったことによって私たちにも神さまが与えてくださる新しい命に生きる希望を与えてくださったのです。この希望を語り続けるためにお祈りします。」(長尾なつみ牧師)
(2024年5月19日礼拝宣教より)
「今日はペンテコステ=教会の誕生日です。五旬節、過越祭から50日目の日に一同は聖霊に満たされ霊が語らせるままにほかの国々の言葉で話し出しました。助けぬしなる聖霊は、私たち一人ひとりにみ言葉を与えて下さるのです。聖霊を与えて下さいという思いは希望の言葉を与えて下さいという祈りなのです。」(長尾なつみ牧師)
(2024年5月12日礼拝宣教より)
「コリント信徒への手紙でパウロは霊的な賜物はキリスト者すべてに与えられるものであり聖なる賜物は教会全体の益のため与えられたと説明します。私たちは人をうらやむのではなく、その一つひとつの賜物に感謝し聖霊すなわち神さまに与えられたものとして「イエスは主である」と信じ告白したいものです。」(長尾なつみ牧師)
2024年5月5日礼拝宣教より
「今日は申命記から長尾基詩神学生による幸せの本質についての宣教でした。価値観の多様化したこの社会で幸せを定義することは難しいです。人生全体が目的と意義を持つとすれば若いうちにしか幸せがないわけではありません。私達も信仰を持ち続け神から良いものとされている自覚を持ち歩みたいものです。」
(2024年4月28日礼拝宣教より)
「主の贖いと復活によって自由の身となったパウロは、多くの人々の救いのためにその自由をささげすべての人の奴隷あるいは仕える者のようにふるまっていました。私たちも神さまにゆるしていただきながら、朽ちない冠に向かって愛し合い支え合い、福音に共にあずかる希望と忍耐を持ち続けたいと思います。」(長尾なつみ牧師)
(2024年4月21日礼拝宣教より)
「異なる宗教の祭りや習慣があり、キリスト者としてどう対応すべきかが大きな悩みだったコリント教会で、パウロは信仰理解に達していない人のために信仰理解をもっている人は愛をもって配慮するように奨めます。キリスト教を知らない人たちのためにも、神さまはご自身のもとにと教会へ導いているのです。」(長尾なつみ牧師)
(2024年4月14日礼拝宣教より)
教会は、神さまを礼拝するために呼び集められた人がいるところです。その礼拝場所を私達は建替えようとしています。できれば地震や災害が起こっても壊れない丈夫なものを、聖書の学びや、信徒同士の交流の場、さらには地域にひらかれたほっとできる、あたたかい場所としての「教会」を建てたいのです。 (長尾なつみ牧師)
(2024年4月7日 礼拝宣教要約)
「パウロにとって救いの根拠はキリストの十字架の死と復活による罪の赦しを信じることでした。十字架にかかられて死なれたイエスさまは人間の最も弱い姿、死に打ち勝ち3日後に復活されたイエスさまは強い神さまの姿です。私たちは十字架と復活のイエスさまを信じる信仰によって一致していきたいのです。」(長尾なつみ牧師)
(2024年3月31日 礼拝宣教要約)
「弟子たちの前に現れたイエスさまは「あなたがたに平和があるように」と慰めの言葉、救いの言葉をかけられました。神さまをたたえること、讃美することは喜びです。一つ、はっきりと言えることは、十字架という悲しみ、苦しみ、絶望を経験されたイエスさまは3日後に復活され希望を与えて下さったのです。」(長尾なつみ牧師)
(2024年3月24日 礼拝宣教要約)
「本日は大泉教会のハンドベルクワイアを迎えての音楽礼拝でした。私たちは生きていると色々な悩みに直面します。予期せぬ出来事や人間関係に疲れたり病気やケガ家族の介護などに目まぐるしい日々です。それでも讃美歌が心の中にあると神さまから愛されていることが分かって希望を見出すことが出来ます。」(長尾なつみ牧師)
(2024年3月17日礼拝宣教より)
「ヨハネ福音書の特徴としてローマ総督ピラトとイエスさまとの「真理」のやり取りがあります。その真理とは、この世の苦しみや悲しみ、人間の罪や弱さすべてを神の独り子であるイエスさまが背負って下さり十字架に架けられて死んで下さったという驚くべき真理です。この真理と向き合うことこそ必要です。」(長尾なつみ牧師)
(2024年3月10日礼拝宣教より)
私たちは、苦しみ、悩み、問題を前にするとき、自分の隣にいる人の悲しみ、苦しみに気づくとき、このイエスさまのみ言葉に立ち帰りたいのです。私たちの苦しみを知っていてくださるイエスさまが「あなた方はこの世では苦難がある。しかし勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」と言って下さっています。(長尾なつみ牧師)
(2024年2月25日宣教要約)
いのち満たされて歩むとは、「祈り」のうちに、日々、生かされているということです。暗闇の世、不安だらけの日々の中でも、私のために十字架で命を捨ててくださり、死に打ち勝ち、復活された本当の光であるイエスさまを知り、信じ、永遠の命に満たされて、希望をもって、一歩ずつ歩んでいくことです。(長尾なつみ牧師)
(2024年2月18日宣教要約)
今日はラザロの復活の話です。私たちは身近な人や愛する者の死を体験する度、病気で「死への不安」と向き合う度にマリアのように座り込み、マルタのように「復活の命」のことがわからなくなります。そんな私たちにイエスさまはくりかえし「わたしは復活であり、命である」と言われるのです。(長尾なつみ牧師)
(2024年2月11日礼拝宣教要約)
イエスさまは、エルサレムの神殿近くで生まれつき目の見えない人を見えるようにしました。私たちも、イエスさまに出会うとき心の眼が開かれていきます。心の眼が開かれるというのは、神さまのまなざしのなかで、苦しみや不安から解き放たれて、新たにされて、自由に生きることができるということです。(長尾なつみ牧師)
(2024年2月4日礼拝宣教要約)
「確かに未来はある あなたの希望が断たれることはない」 (箴言23:18)という力強いみ言葉を、連盟総会(オンライン)の礼拝で聴きました。イエスさまが「良い羊飼い」なのは、羊のために命を捨てて下さったからです。イエスさまは、ご自分の羊である私たちのためにご自身の命をささげてくださったのです。 (長尾なつみ牧師)
(2024年1月21日礼拝宣教要約)
イエスさまはサマリアの女性にヤコブの井戸で出会い、「渇くことのない、生きた水」について話されました。私たちが「礼拝をする」ということは、神さまに出会うことだと思います。礼拝を通して、本当の神さまに出会うということこそが、心が「渇く」ことではなく、「満たされる」ということなのです。(長尾なつみ牧師)
(2024年1月14日礼拝宣教要約)
イエスさまは、「カナの婚礼」の奇跡で水をぶどう酒に変えられました。病気を癒したり、悪霊を追い出すというような「人」を救う奇跡ではありませんでした。もしかしたら私たちのイエスさまとの出会いも、劇的な回心ではなく、生きているなかで小さなことのように思えるところにあるのかもしれません。
(長尾なつみ牧師)
(2024年1月7日礼拝宣教要約)
主イエスさまに出会うことは、世の中の不満や不安を抱えながら、或いは不条理にいつも憤りをもっているような状況の中で、まことの「光」であるイエスさまに出会うことだと思います。それは、進むべき道が開かれ、暗闇でもがいていた心に、希望の光が与えられることです。(長尾なつみ牧師)
(2023年12月31日礼拝宣教より)
「今日は長尾基詩神学生によるイザヤ書に関する宣教でした。各期の預言者は民に捕囚前は悔い改めを、捕囚期はアイデンティティの確保、捕囚後は新たな歴史の出発点に立つ覚悟が求められたと説明がありました。神の言葉に聞き主に従い歩むことが私たちに期待され求められていると力強く語ってくれました。」(長尾基詩神学生)
(2023年12月24日礼拝宣教より)
「今年はイスラエルのベツレヘムではクリスマス行事がすべて中止となっています。暗闇に生きる人々に光が届くのはいつでしょうか。主の祈りで「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」と祈るとき、日本の子どもたちだけでなく、ガザの子どもたちにもどうか食べるものが届きますようにと祈り続けたいです。」(長尾なつみ牧師)
(2023年12月10日礼拝宣教より)
「敬愛する友を失った私たちは今大きな喪失感の中にあります。神さまのもとに行かれた方に思いを巡らすときに私たちの胸は寂しさとやり切れない思いでいっぱいになります。しかし、イエスさまが伝えられた神の国の到来に生きる私たちには、先に地上での生を終えられた方に再会する確かな希望があります。」(長尾基詩神学生の手紙より)
(2023年12月3日礼拝宣教より)
「先日、教会員の方が天に召されました。この地上の命は尽きても、永遠の命に生きていること、復活の希望があることを信じます。アドベントとは、「待降節」のことで、救い主イエスさまのお誕生を待ち望む日々のことです。「どんな人にも共にいてくださるイエスさま」を感謝して待ち望みたいと思います。」(長尾なつみ牧師)
(2023年11月26日奨励より抜粋)
「救い主はどこにおられるのでしょうか?悲しくて涙を流している人や戦争で地獄のような状態におかれ涙も枯れはてたような人を輝かしい栄光の玉座から見下ろしておられるのでしょうか。そうではなく最も低い場所で私たちと共におられ天の父なる神さまを見上げとりなしの祈りをしてくださっているのです。」(左右田淑子姉)
(2023年11月19日礼拝宣教より)
「イザヤ書から「しもべの忍耐」について考えました。私たちの人生にも様々な困難があります。しかし、今ここで一緒に神さまのみ言葉を聞いている私たちは神さまの導きにより選んでくださったから、教会につながり信仰を得ているのです。神である主が義と認めてくださり、助けてくださる確信があります。」(長尾なつみ牧師)
(2023年11月12日礼拝宣教より)
「主のしもべは語る言葉が聞かれないという挫折を通してその務めが個人的困窮ではなくて主の「おん目」に重んじられているのかという問題が重要であると学びました。そしてしもべの言葉が力を得て働くのはそれが主なる神さまご自身の啓示に基づくものでありそれを指し示す時そこに主の力が働くからです。」(長尾なつみ牧師)
(2023年11月5日礼拝宣教より)
「信仰の火を消すことなく保つことができるのは人を永遠の命へと保つ神の言葉なのです。神の言葉だけがとこしえに立ち、神の言葉が語られ聞かれるところに信仰の火は勢いよく燃えその灯芯は暗くなることがありません。暗くなってゆく灯芯を消すことなく保つのは神の言葉によって与えられる恵みの力です。」(長尾なつみ牧師)
(2023年10月29日礼拝宣教より)
「イザヤ書40章は「慰めよ」という言葉で始まります。神の慰めとは気をまぎらわしたり、現状に目をつむることではありません。聖書では慰めるとは助ける、あがなう、憂いのかわりに喜びを与えるという言葉と平行する言葉です。今、つらいと思っているそのことは変わっていくという希望につながるのです。」(長尾なつみ牧師)
(2023年10月22日礼拝宣教より)
「「シャローム」とはただ戦争がない状態というよりも「神のゆるしと祝福にある平安」をあらわすと言われます。その「神との和解」の先に「人と人を平和に導く」ということがあるのです。祈る言葉を探しあぐねている毎日ですがそれでも「キリストの平和」が人々の中に満ち溢れていく「希望」を祈ります。」(長尾なつみ牧師)
(2023年10月15日礼拝宣教より)
「イスラエルの地における戦闘による悲惨さに目前で戦争が起こっている状況のなかで、ニュースを見ている自分はなんと無力なのだろうと思う気持ちと祈ることをあきらめてはいけないという気持ちが交錯しています。そんなまとまらない気持ちのままですが、精一杯聖書のみ言葉に聴いていきたいと思います。」(長尾なつみ牧師)
(2023年10月8日礼拝宣教より)
「私たち人間を愛してくださる神さまは人間が罪を犯してしまったときに悔い改めを、神さまから離れてしまったときに立ち帰ることを待っておられます。その導きの中では悲しいことがいくつもあり、人間の目には受け入れがたい試練がありますが、そのことさえも神さまの恵みのうちに生かされているのです。」(長尾なつみ牧師)
(2023年10月1日礼拝宣教より)
「神さまが人に託されたものは能力、時間、立場というものがあります。私たちがそれらのものを自分の欲のためだけに使うのであれば人は必ず他の人を虐げる、あるいは犠牲を払わせることになりかねません。すべてのものは主から来ているものであることを覚え神さまからの恵みに感謝して歩みたいものです。」(長尾なつみ牧師)
(2023年9月24日礼拝宣教より)
「バベルの塔における人間の傲慢とは神さまがこの世界に多様性を持った諸民族が増え広がっていくことを祝福として与えようとしておられるのに、それに逆らい人間を一つの権威の下に統合し多様性を認めず画一的に支配しようとすることです。多様な私たちはイエスさまの十字架によって一つとされるのです。」(長尾なつみ牧師)
(2023年9月17日礼拝宣教より)
「私たちは今様々な不自由を感じています。その不自由な心を自由にできるのは主なるイエスさまただお一人です。イエスさまによって私たちは自由を得ることができます。イエスさまの言葉を信じて祈って歩むとき私たちの心は自由になれるのです。真理であるイエスさまは私たちを必ず受け止めて下さいます。」(長尾なつみ牧師)
(2023年9月10日礼拝宣教より)
「今日は西南学院大学神学部に推薦されている長尾基詩神学生による宣教でした。福音の働きについて「現代神学」の観点から私たちが現在抱えている問題と聖書のみことばをつなぐ新しい神学の一端を紹介して頂き、群衆としてではなく、私たち一人ひとりと向き合われたイエスさまの恵みを語って頂きました。」(長尾基詩神学生)
(2023年9月3日礼拝宣教より)
「神さまは箱舟にいたノアとすべての動物をみ心に留めて地上に風を吹かせられました。地上の水が減り始め再創造が始まりました。地上に出たノアは先ず神さまに礼拝しました。この礼拝を受けて、神さまは人に対して大地を呪うことは二度とすまいと心を変え、忍耐と寛容をもって人に関わろうとされました。」(長尾なつみ牧師)
(2023年8月20日礼拝宣教より)
「悪事や不法に満ちている地上において、神さまは唯一正しい存在の神さまに従う心をもった無垢な人間ノアと共に歩まれました。すべて神が命じられたとおり果たしたノアと私たちの教会建築の歩みを重ね合わせてみると、人間の目には不可能と思えても、与えられたものならば必ず成ると信じていきたいです。」(長尾なつみ牧師)
(2023年8月6日礼拝宣教より)
「カインとアベルの物語から人間を造られた神さまの悲しみがあると感じました。ご自分のかたちにかたどって作られた人間が神さまを裏切ってしまう、神さまの前から離れてしまうことに深い悲しみがあったのではと思います。8月に平和を考えるとき、隣人のために祈ることで平和を造る人々でありたいです。」(長尾なつみ牧師)
(2023年7月30日礼拝宣教より)
「人が神に感謝をもって精一杯生きようとする時そこにエデンの園があるのです。逆に神の愛と戒めを忘れ何かのせいにしているならば人生はつまらないものでしょう。アダムとイブが犯した罪は私たち誰もが陥ってしまう可能性がある原罪と言えるのです。しかし、神さまはそれでも人間に対し愛を示されます。」(長尾なつみ牧師)
(2023年7月23日礼拝宣教より)
「今日は神さまによって人間が創造された場面をあらためて振り返り、人は一人で生きるものではなく、だれかと相対してだれかと一緒に生きるために神さまは人を創られたということを実感しました。人は共感できる存在でそこには人は独りでいるのはよくないという神さまの意思があることに気付かされます。」(長尾なつみ牧師)
(2023年7月16日礼拝宣教より)
「主なる神さまが土の塵に「命の息」が吹き込まれることによって人は生きたものとなりました。造り主なる神さまは、私たち一人ひとりに向き合ってくださる方です。私たちがどうしようもなく虚しく、あるいは罪に気付くときに私たちのことを日々新しくし、今日も「生きよ」と言ってくださっているのです。」(長尾なつみ牧師)
(2023年7月9日礼拝メッセージより)
「今日は花小金井教会との「相互訪問礼拝」ということで、花小金井教会から森山ひろみ姉と中根淨兄がご奉仕くださり、証しとメッセージをいただきました。メッセージでは創世記から神がご自身にかたどって人を創造されたことから、人間の多様性について語られ、改めて神の恵みを覚えることができました。」(中根淨兄)
(2023年7月2日礼拝宣教より)
「天地万物を創られた方は私たち一人ひとりを良いものとして創られました。そして一人ひとりがとても美しく、神さまにとって愛おしい存在であって、この自然界になくてはならないかけがえのない存在として、つらく悲しい現実を生きる人間に神さまは御自分のひとり子イエス・キリストを与えてくださいます。」(長尾なつみ牧師)
(2023年6月25日礼拝宣教より)
「「神の義」とは人間の正しさや善行などとは明らかに違うものです。私たちは神さまの義しさの前に自分の罪をみてしまいます。礼拝を守れない自分を責めたり、そうできない人裁いたりすることがあります。そうではなくて、神の義を求めるということはイエスさまに出会いイエスさまを信じることなのです。」(長尾なつみ牧師)
(2023年6月18日礼拝宣教より)
「ローマ書12章は愛唱聖句の宝庫ともいえる箇所です。このみ言葉を読んで府中教会の方々のお顔とみなさんの奉仕に気付き、感謝でいっぱいになりました。教会執事の方々はよく働いています。とくに今、教会建築のために日々、知恵を尽くして平日にも教会のことや建築のことをよく考えてくださっています。」(長尾なつみ牧師)
(2023年6月11日礼拝宣教より)
「本日は井形英絵先生(ふじみ野教会)をお迎えしての礼拝でした。礼拝では、出エジプト記の全体像を解説され、建築の一つ一つが霊的な営みであると証ししてくださいました。続く合同分級では、前任教会の建築の歩みを分かち合っていただき、礼拝、宣教の「場」のために献げることが大切と話されました。」(井形英絵先生)
(2023年6月4日礼拝宣教より)
「「救い」とは何でしょうか。ある人は救いとは自由になることだと言われました。私たちは色々なものから自由になれていません。イエス・キリストを知ってイエスさまを救い主だと心から信じ、神さまのみ言葉である聖書をへりくだって読んで学んでいくと心が自由になる、そういうことが救いだと思います。」(長尾なつみ牧師)
(2023年5月28日礼拝宣教より)
「今日は教会暦では「ペンテコステ」(聖霊降臨日)です。ユダヤ教の祭りの五旬祭の日に弟子たちが集まり、一緒にお祈りをしていた時、聖霊に満たされ外国語で話し出しました。この不思議な出来事を通してイエスさまのことを信じる人々が増え教会が出来たのですから、これは喜ばしい神さまからの祝福です。」(長尾なつみ牧師)
(2023年5月21日礼拝宣教より)
「パウロは復活して生きておられるイエスさまとの出会いによって自分の本物の姿に気づかされました。私たちもイエスさまとの出会いによって善いことをして神に仕えようとしている自分が罪の力にどうしようもなく捕えられている現実に愕然とします。イエスさまは私たちをその罪から救ってくださるのです。」(長尾なつみ牧師)
(2023年5月14日礼拝宣教より)
「私たちの府中教会はバプテスト教会です。バプテスマとは洗礼(正確には浸礼)のことで全身が水に浸かることで「罪に死ぬ」ことを意味しますが、続いて「新しい命」に生きる意味もあります。神さまは「聖霊」となってこのバプテスマを受けた人と一緒にいてくださることを約束してくださっているのです。」(長尾なつみ牧師)
(2023年5月7日礼拝宣教より)
「ローマの信徒への手紙は、パウロがまだ見ぬローマの教会の人たちへ自分の経験やキリストに対する篤い思いを伝えようと書いた手紙です。私はこれらの言葉からイエスさまの苦難と希望の姿が描き出されているようにも思えます。私たちも不安や悲しみの中にあってもその恵みを感謝して受けていきましょう。」(長尾なつみ牧師)
(2023年4月30日礼拝奨励より)
「今週は井東健男兄による奨励です。ヨハネによる福音書第1節第1章は「初めに言があった」です。強いて言えば神の言葉でしょう。ギリシャ語では知性ですが冷静と捉えます。対語はパトス=情熱でイエス・キリストの受難を意味します。私たちキリスト者はこの冷静と情熱の間に生かされていると言えます。」(井東健男執事)
(2023年4月23日礼拝宣教より)
「今週の聖書箇所のテーマは「正しい人は一人もいない」ということです。みんな罪びとだということです。聖書の中で「罪」とは神さまから離れていることだと考えます。犯罪という意味とは少し違い神さまから離れていると神さまとの良い関係とは言えません。神さまとの良い関係を求めていきたいものです。」(長尾なつみ牧師)
(2023年4月16日礼拝宣教より)
「福音とは私たちにとってよい知らせであり、イエス・キリストの十字架によって起こった神さまと私たち人間との関係回復という意味をもっています。神の義により学んでいく中で祈り祈られながら、神が私たちの信仰を育んでくださることを日々確信し信仰の友である教会の人々と強く歩めることを願います。」(長尾なつみ牧師)
(2023年4月9日礼拝宣教より)
「今週の箇所で二人の弟子がイエスさまと一緒に歩きながらエマオへと向かう場面を読むたびに情景を想像します。そして二人の弟子の姿に私自身の姿も重ね合わせています。キリストを信じる私たちは愛する家族との別れ等本当に苦しい時や不安な時にこそ、イエスさまに出会っているのではないかと思います。」(長尾なつみ牧師)
(2023年4月2日礼拝宣教より)
「今週から受難週です。十字架にかけられたイエスさまの「今日私と一緒に楽園にいる」との言葉は悔い改めた犯罪人だけでなく、もう一人のののしった犯罪人をもゆるし伝えたものという見方もあります。この受難週にイエスさまの苦しみを覚えつつ私たちに与えられたみ言葉の意味を深く考えていきたいです。」(長尾なつみ牧師)
(2023年3月26日礼拝宣教より)
「今週はイエスさまと弟子たちとの最後の晩餐の場面です。これには過越の食事のほか深い意味があります。旧約聖書の時代、神さまは人々に十戒や律法を与え神と人とは厳しい緊張関係にありました。それに対してイエスさまが十字架上でみずからの体と血をささげゆるしと愛の関係を成就して下さったのです。」(長尾なつみ牧師)
(2023年3月19日礼拝宣教より)
「イエスさまは指導者たちをぶどう園の農夫たちにたとえ、主人が遣わした僕に対して危害を加え、我が物にしようとしている様を嘆かれました。私たちも神さまが創造されたこの世界を自分だけのものと考えてしまう弱い人間であることをイエスさまのみ言葉によって知り、認め悔い改めていきたいと思います。」(長尾なつみ牧師)
(2023年3月12日礼拝宣教より)
今週のイエスさまの「エルサレム入城」の場面では子ロバが用いられます。私たち一人ひとりは神さまに用いられ方は違うかもしれません。しかし、神さまは私たち一人ひとりに大いに期待してくださってします。必要のない人は一人もいないのです。神さまは一人ひとりを大切に思い愛してくださっています。 (長尾なつみ牧師)
(2023年3月5日礼拝宣教より)
「 神の国はいつ来るのか?という問いにイエスさまは「気を落とさずに絶えず祈りなさい」と言われました。本当につらい思いの中にいる方にあきらめないでとは言えませんが、お祈りもアップデートし、祈るしか出来ない現実を生きている方々を覚えその方々の祈りに合わせあきらめず祈っていきたいです。」(長尾なつみ牧師)
(2023年2月26日宣教より)
「ウクライナ中央ではウクライナに栄光あれ!という意味のスラバウクライーノ!という言葉をよく耳にしたそうです。長尾神学生が現地でその言葉を使うとスラバボグ!つまり神に栄光あれ!というべきだと提案されたとのことです。戦時下という特殊な状況にあって冷静に信仰を貫く姿勢に胸を打たれました。」(長尾基詩神学生)
(2023年2月19日礼拝宣教より)
「神の前に豊かになるとはどういうことでしょうか。私たちは神さまに喜ばれるような善行を積むことと理解しがちです。金持ちの愚かさは善行を積まなかったからではなく神さまとの関係を確立して生きようとしなかったからです。本当の豊かさとは神さまの救いの恵みを信じそれにあずかって生きることです。」(長尾なつみ牧師)
(2023年2月12日礼拝宣教より)
「イエスさまは、「たとえ話」で神の国の秘密を教えてくださいました。たとえ話では聞き手の姿勢が問われます。私たちは、イエスさまから与えられている福音の「光」(ともし火)を決して消してしまうことではなく、机の下に隠してしまうのでもなく、まわりを照らすことのできるようにしたいと思います。」(長尾なつみ牧師)
(2023年2月5日礼拝宣教より)
「今週はイエスさまがエルサレムへ到着された場面です。イエスさまがエルサレムの人々の実態を心から憂い涙し、祈りの場を奪い返すように怒りをもって異邦人の庭から商売人たちを追い出しました。そして神殿を清めそこで教えられました。教会がすべての人の祈りの家として用いられることを願っています。」(長尾なつみ牧師)
(2023年1月29日礼拝宣教より)
「今週はヨハネの弟子たちがイエスさまに質問をする場面です。その時イエスさまは多くの人々を癒しておられました。私たちはそれぞれ色々な悩みを抱えています。そのような祈りにもならないような私たちの心の中でさえもイエスさまはご存じで今日も一人ひとりの悩みに向き合ってくださる方だと思います。」(長尾なつみ牧師)
(2023年1月22日礼拝宣教より)
「今週は安息日の意味を問うている箇所です。教会は魂(心)の休む場所、安息日の主であるイエスさまに出会い感謝をささげる場所でありたいと思います。すべてのわざを休んでも保証されている、自分の存在価値を深く知らされる場所、それが主の日の礼拝です。そこにこそ本当の意味での安息があるのです。」(長尾なつみ牧師)
(2023年1月15日礼拝宣教より)
「今週はイエスさまが病人を癒された話です。当時の宗教観では「様々な病や災害は罪の結果」と考えられていました。しかし、イエスさまは必ずしもそうではないと考えておられたのです。むしろイエスさまは病気に苦しむ人々を罪人呼ばわりすることに怒りを感じ病気に苦しんでいる人々を憐れまれるのです。」(長尾なつみ牧師)
(2023年1月8日礼拝宣教より)
「今週のルカによる福音書の箇所はイエスさまが誘惑を受けられた場面です。マタイ福音書においては「人は、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と続いています。神さまは命をつなぐ食べ物に加え、命の言葉である神さまのみ言葉も与えてくださるのです。み言葉は私たちが生きる「力」となるものです。」(長尾なつみ牧師)
(2023年1月1日礼拝宣教より)
「今週の箇所はイエスさまが12歳の時の話です。過越祭の帰路、エルサレムに残っていた少年イエスは心配する両親に「わたしが自分の父の家にいるのを知らないのですか」と返します。イエスさまは古い価値観を壊し、新しい価値観を示されました。そこにイエスさまの福音、イエスさまの希望があるのです。」(長尾なつみ牧師)
(2022年12月25日礼拝宣教より)
「先日、府中カトリック教会のアンドレア神父に、バプテストの府中教会の時間と一緒にお祈りを合わせます。世界平和のために。と言葉を頂きました。不安や悲しみはあっても、私たちには神さまに祈る仲間が与えられている、今年を振り返って思う一番の恵みは一緒に祈る人が与えられているということです。」(長尾なつみ牧師)
(2022年12月24日イブ礼拝メッセージより)
「今年のクリスマスは特別な気持ちで迎えています。日本ではコロナや寒波、世界に目を向けてもロシアのウクライナ侵攻と大変な状況です。クリスマスは苦しい場所からイエスさまにたどり着いたことを祝福するものです。苦しみの中にある方も、クリスマスの希望のメッセージを心に留めていただきたいです。」(長尾なつみ牧師)
(2022年12月18日礼拝宣教より)
「今週はマリアがエリザベトに会いに行く場面です。エリザベトから祝福の言葉を受けマリアも神さまを心から賛美しました。今日はあらためて、神さまのあわれみについて考えます。あわれみという言葉は、ギリシア語でエレーオーという言葉で、私は「神の愛」という意味として受けとめたいと思っています。」(長尾なつみ牧師)
(2022年12月11日礼拝宣教より)
「今週はルカによる福音書のクリスマスの場面です。今日の箇所はマリアが主のみわざ(聖霊)により身ごもるということが記されています。マリアは戸惑いながらも神に従う決心をしました。聖霊とは「助けぬし」です。神さまに従うということは相当大変なことですが、神さまは聖霊を与えてくださるのです。」(長尾なつみ牧師)
(2022年12月4日礼拝宣教より
「今週は長尾基詩神学生による宣教です。アドヴェントとクリスマスは、私たちの主イエス様の誕生をお祝いし待つときです。この待つというのは、単にクリスマスまでの4週間だけではなく、3日目に復活されたイエス様が再びこの世に来られることを待つという、もっと先のことを待っているという期間です。」)(長尾基詩神学生)
(2022年11月27日礼拝宣教より)
「今週の聖書の箇所は新約聖書のルカによる福音書になります。ルカによる福音書の特徴の一つは「貧しい人」「弱い人」に視線を向けていることだと思います。イエスさまが会堂で朗読された言葉の中心となるのは「解放と自由」です。私たちも弱い立場の人たちを覚え祈りをあきらめてはいけないと思います。」(長尾なつみ牧師)
(2022年11月20日礼拝宣教より)
「今週でネヘミヤ記は最後です。城壁の再建の完成は、生活の再建のみならず、礼拝の準備が整ったことを意味します。主を賛美することは、喜びの時ばかりでなく、絶望の中にも神さまの慰めを繋ぐかけ橋となるものです。私たちも、常に豊かな恵みを与えてくださる神さまに感謝をささげ賛美したいものです。」(長尾なつみ牧師)
(2022年11月13日礼拝宣教より)
「今週のネヘミヤ記では、エルサレムの城壁の完成を祝うため集まった人々が聖書の朗読をたのみました。エズラたちは会衆に主を喜び祝うことこそが力の源であると励まします。私たちも自分を低くし喜びに満たされる礼拝をいつもささげ主イエスさまを証しすることができるように、祈り求めていきたいです。」(長尾なつみ牧師)
(2022年11月6日礼拝宣教より)
「いよいよエルサレムに到着したネヘミヤは、神の示しによってユダヤの人々に城壁の再建を呼びかけ、そのネヘミヤの思いに共感して人々は城壁再建に奮い立ちました。私たちも多くの苦しみの中にあって、イエスさまの希望を見いだすことがあります。そこに気づくことが信仰と言えるのではないでしょうか。」(長尾なつみ牧師)
(2022年10月30日礼拝宣教より)
「今週からネヘミヤ記に入ります。ネヘミヤの印象は祈る人です。ネヘミヤはまず祈り、勇気を出して王に自分の願いを吐露し、エルサレム行きを許されます。ネヘミヤにとって不安や恐れよりも、すべてのことが神さまへの信頼が最優先であったということがよくわかります。私たちもそうありたいと思います。」(長尾なつみ牧師)
(2022年10月23日礼拝宣教より)
「今週のエズラ記8章では、礼拝に必要なものが整えられます。礼拝に必要なものとは何でしょうか?礼拝に必要なのは、「主を賛美する人」、「主に仕える人」です。この日曜日の礼拝のために「祈られている」ことを顕著に感じます。多くの見えない「奉仕」によって礼拝が整えられていることに感謝します。」(長尾なつみ牧師)
(2022年10月16日礼拝宣教より)
「今週のエズラ記6章でイスラエルの人々は妨害に遭いながらも神殿を建設しました。私たちは物事が順調に進まないとき、一人だけで頑張っていると思うことがあります。しかしそこには気づいていない仲間が、聞こえていない祈りがあり、そして何より最高の協力者の父なる神がおられることを覚えましょう。」(長尾なつみ牧師)
(2022年10月9日の礼拝宣教より)
「今週のエズラ記3章1節には「第七の月になって、イスラエルの人々は自分たちの町にいたが、民はエルサレムに集まって一人の人のようになった」とあります。私たちの教会でも、一人ひとりの個性が尊重されつつ、なおかつ心を合わせて、同じ神様を見上げ、主に讃美と感謝を捧げるようでありたいです。」(長尾なつみ牧師)
(2022年10月2日礼拝宣教より)
「今週からエズラ記に入りました。指導者エズラは、バビロン捕囚からの帰還と神殿の再建の時代に、律法の再発見による宗教改革の運動を通してユダヤ教を再構築するという重要な役割を果たした人でした。教会建築を掲げる私達も、当時の人々の不安な気持ちに思いを馳せ、希望を持って進んでいきたいです。」(長尾なつみ牧師)
(2022年9月25日の礼拝宣教より)
今週は旧約聖書における「復活」について考えました。悔い改めの祈りをしたダニエルにみ使いは「終わりの時」が来ていることを告げます。この言葉は新約聖書のイエス・キリストの再臨を想起させる言葉です。信仰に立つ者として「終わりの時」に主が再び来てくださることに希望をもっていきたいものです。(長尾なつみ牧師)
(2022年9月18日の礼拝宣教より)
今週は年長者祝福礼拝を覚えています。さて、ダニエル書9章でダニエルはエレミヤ書から預言がまもなく成就することを悟り心からの悔い改めと嘆願の祈りに導かれました。今の時代に聖書の言葉が私達に何を語りかけているのかを聞き続け、ダニエルのようにとりなしの祈りをする人でありたいと思います。(長尾なつみ牧師)
(2022年9月11日の礼拝宣教より)
今週はダニエル書第6章でダニエルの活躍を妬んだ役人がダニエルを陥れようとするお話です。獅子の洞窟に投げ込まれましたが奇跡的に助かります。ダニエルを救いイエスさまを復活させてくださった神さまが私たちの信じる信仰する本当の神さまだということを今日また思い出していただきたいと思います。(長尾なつみ牧師)
(2022年9月4日の礼拝宣教より)
9月4日は長尾基詩神学生による宣教でした。ダニエル書3章ではイスラエルの若者3人が金の像を拝むのを拒否し炉の中になげこまれました。今でこそ生死を分けるような場面はないのかもしれませんが、クリスチャンとしてどう生きるのかを考えさせられるお話でした。
(2022年8月28日礼拝宣教より)
「先週からダニエル書を学んでいます。今日の2章でダニエルは王の夢の解き明かしという試練を与えられます。現状を聞いたダニエルは思慮深く賢明に応対し、仲間に事情を話し一緒に神様に祈りました。王はダニエルの夢の解釈に納得しこの危機を乗り越えました。私たちも祈りの力を信じましょう。」牧師長尾なつみ